ホテリエの現場から

「いただきます」の心を育む
ホテルシェフの食育授業

調理実習に取り組む小学生たち

慌ただしい現代社会の中で食育が目指すもの

日本の食育は、2005年に制定された「食育基本法」に基づく取り組みだ。便利だが慌ただしい現代社会で、とかく置き去りにされがちな「食」の大切さを見つめ直し、健康的な食生活の営みと、豊かな食文化を次世代へ伝えることを目的としている。

「食べること」は、生命を維持するために欠かせない行為だ。同時に、家族で食卓を囲み、生産者や料理人の思いに触れ、旬の食材を通して自然とのつながりを知る――。こうした「食」を巡る経験は、身体を育て(体育)、考える力を育て(知育)、心を育てる(徳育)。生涯にわたり健全な食生活を実践できる人を育てること、それこそが食育の目指すものだ。

脳も味覚もぐんぐん発達する小学4年生

食育の担い手は、家庭や学校だけとは限らない。農業や漁業に携わる人々、食品業界、そして食のプロフェッショナルが集うホテルにもまた、その重要な役割を果たすことが期待されている。

東急グループの総料理長で、セルリアンタワー東急ホテルの名誉総料理長でもある福田順彦シェフは、長年、精力的に子どもたちの食育に取り組んできた。3年前からは月に1度、東京都市大学付属小学校(学校法人五島育英会)で、4年生2クラスを対象に、食育の授業を行っている。

なぜ小学4年生なのか。福田シェフに尋ねると、興味深い答えが返ってきた。
「この食育教育は、フランスの研究結果に基づいています。それによると、子どもの脳は10歳ごろに目覚ましく発達し、かつ、この時期は味覚も非常に鋭敏だというのです。もっと年齢が下だと味覚はまだ十分に発達しておらず、それ以降になると、もうできあがってしまっているのだとか。そういうわけで、10歳前後に当たる小学4年生を対象にして、食育の授業を行っているのです」

カリキュラムは、年間12回にわたって組まれている。その最初の3回は、「五感について」がテーマだ。「これは食べてよいものか、食べないほうがよいものか」、五感を使って自分で判断することが、安全な食のために重要だからだ。

例えば食材をよく見て匂いを嗅ぎ、傷みや腐敗がないかを確かめる。触感で果物の食べ頃を判断したり、調理中は音から火の通り具合を知ったりする。さらに口に入れれば、舌触りや香りも、おいしさを感じる重要な手がかりになる。こうした五感を総動員して食品の安全や鮮度を見極めていることを、子どもたちは授業を通して実感していく。

「和三盆」と書かれた黒板のある教室で行われた授業。小学生たちが席に着く中、大人らが長いサトウキビの両端を持ち、大人らに挟まれる形で小学生らもサトウキビを掴み上げている。白い調理服とコック帽を着た講師が教室前方から見守っている。
教室で白い調理服とコック帽を着た講師の前に小学生らが順に並び、講師の手のひらに小学生が一人ずつ自身の手で触れている様子。黒板には「和三盆」と書かれている。

小学4年生を対象に、座学だけでなく体験を通して食の大切さを伝える食育の授業。

いろいろな味を感じ取る力を育てる

「五感」のうち「味覚」の授業では、それぞれ1%の塩、グラニュー糖、クエン酸、にがりを加えた水を4種類用意した。それを子どもたちにテイスティングしてもらい、含まれるかすかな味を当ててみようというのだ。

塩味は、私たちが生きるのに必要なミネラルと関係している。甘味は、熟した果物のような「おいしいもの」の象徴。一方、酸味は食品の傷みを連想させ、苦味には「口にしないほうがよいかもしれない」と感じさせる働きがある。

「4種類の水の味の違いはごくわずかで、大人にはほとんど識別できません。ところが子どもたちは、けっこう当ててしまうんです」と、福田シェフはうれしそう。

「でも、学びはそこで終わりではありません。たしかに酸味や苦味は、食品の安全性を判断する一つの目安になりますが、実際には、酸っぱくてもおいしい食べ物、苦くても体によい食べ物は、私たちの身近にたくさんあるのです。そういうことも子どもたちには知ってほしい。将来、偏食にならないよう、今から味覚を育てていくことが大切です」

カップの香りを確かめる小学生たち
「嗅覚」の授業では、カップに入ったバニラビーンズの甘い香りを体感。

考えたことを記録して、家族で話をしてみよう

授業では、自分たちでレタスやカブを育てて、それらを使った簡単な調理実習も行う。さらに「イワシの手開き」の実習では、実際にイワシの中に指を入れ、骨に沿って身をはがし、自分でさばいたものを焼いて食べるという経験もする。どの子も真剣そのものだが、魚に触るのを気味悪がったりする子は、意外にもほとんどいない。むしろ保護者からは、「うちの子は魚が食べられなかったのですが、福田先生の授業を受けて、食べるようになりました」といった、うれしい報告もあるという。

福田シェフが毎回のように、子どもたちに伝えていることがある。授業で感じたことを自分の言葉で書き留めて、晩ごはんの食卓で家族と話してごらん、ということだ。授業も大切だが、食育の土台は家庭にあり、家族の会話の中にあると考えているのである。

こうした授業の成果を、学校ではどのように見ているのだろうか。学校側の担当教員である日野ひとみ先生はこう話す。

「毎回『本物』に触れながら、いろいろな新しい体験ができる福田先生の授業を、子どもたちはとても楽しみにしています。子どもたちの感性を大切にしてくださるのも、大きな魅力です。お話を聞きながら大事なことを素早く書き留めるというのは、最初は難しかったようですが、みんな少しずつできるようになりました」

室内に敷いたブルーシートの上で、児童たちがプランターで育てた野菜を収穫している様子。はさみを使って葉物野菜を切り取り、収穫した野菜を新聞紙の上に並べている。
自分たちで種をまいて育てた野菜を収穫。サラダにして味わう喜びも体験する。
調理実習で、バンダナとエプロン、マスクを着けた児童が、フライパンで魚を焼いている様子。大人にフライパンを支えてもらいながら、トングを使って調理している。
身を傷つけないよう丁寧に手開きしたイワシを、塩コショウで香ばしく焼き上げる。

食とは「命をいただき、自分の命をつむぐ」こと

食の安全や栄養に関することだけでなく、食材の生産者や、日々の料理を作ってくれる人の存在に敬意を持つこと、食べ物を粗末にしないこと、食品添加物や農薬のこと、そして楽しく食事をするためのマナーも、すべて食育の一環だ。

「大変な労働の賜物としての食材や、自然が与えてくれる恵みを、私たちは一生の間に、一体どれくらい食べるのでしょうか。命をいただくことの意味や、一皿の料理の向こうにたくさんの人たちの存在があることを、子どもたちに知ってもらいたいと思って、この授業を続けています」

そんな福田シェフの授業を通じて、憧れのホテルが、子どもたちにとって次第に身近な存在となっていく様子もまた、印象的だった。

イタリア語の「ボナペティート」、フランス語の「ボナペティ」。どちらも「召し上がれ」という意味だ。しかし日本では食事のたびに手を合わせ、「いただきます」という。それは私たちがいただく命と、食に関わる無数の人たちへの感謝の言葉に他ならない。その意味を若い世代の心に刻むことが、日本の豊かな食文化を次の世代へ受け継ぐ力になるだろう。

料理人の肖像
食育授業の講師を務める福田順彦シェフ(東急グループ総料理長、セルリアンタワー東急ホテル名誉総料理長)。全国の東急ホテルズにおける「食の牽引車」として、また、日本を代表する食文化のオピニオンリーダーとして精力的に活躍。2026年、フランス共和国政府より、農事功労章の最高位「コマンドゥール章」受章、厚生労働大臣より「令和8年春の黄綬褒章」受章。

取材・文/田中洋子
(2026.08 Vol. 757)