心も身体も癒すスリープツーリズム

Interview
睡眠研究の第一人者、柳沢正史氏に聞く
「スリープツーリズムのすすめ」

快適な眠りを求めて旅をする。この新たな潮流、「スリープツーリズム」が世界的な広がりを見せる中、日本でも「快眠」を掲げた宿泊プランを打ち出すホテルが増加中だ。ブームの背景には何があるのか。そして、ホテルはスリープツーリズムをどう捉えるべきなのか。睡眠研究の世界的権威であり、日本でもスリープイノベーションを推進する柳沢正史氏に聞いた。

睡眠研究の世界的権威であり、日本でもスリープイノベーションを推進する柳沢正史氏の写真

日本人の多くは慢性的な寝不足状態

「日本には、先進国の中で最も国民の平均睡眠時間が短いという問題があります」。柳沢正史氏は、日本の現状をこう語る。「アメリカで睡眠に対する認識が広まったのは30年ほど前。臨床睡眠学の研究者が、医療関係者の睡眠不足が患者にも悪影響をもたらすことを『睡眠負債』という言葉とともに主張したのがきっかけでした。ヨーロッパではもともと眠りへの意識が強く、人々の睡眠時間は平均して長い傾向にあります。それに対し、日本で睡眠の重要性が取り沙汰されるようになったのはここ10年ほどです」。

10年ほど前といえば、アメリカで研究室を主宰していた柳沢氏が帰国し、自国の現状に驚き、スリープイノベーションを推進し始めたタイミングと重なる。この頃から人々の関心は高まってきたものの、「日本社会全体としては、いまだに睡眠を軽視する傾向にある」とのこと。「憂慮すべきは、睡眠軽視の考えが年配者だけでなく、若者や子どもにも浸透していることです。これには日本の受験システムが大いに関係しているとも考えられ、今後も睡眠軽視の文化が続くのではないかと大いに危惧しています」。

柳沢氏の憂いは科学的エビデンスに裏打ちされたものだ。徹夜が続けばパフォーマンスが下がるのは誰もが経験していることだろうが、どれだけ下がるかを聞けば驚くはず。例えば、一晩徹夜した状態は、実に血中アルコール濃度0.1%相当、つまりワインなら1瓶、生ビールならロング缶3本を飲んだ状態と同等。さらに、1日4時間の睡眠でも5〜6日続けば徹夜明けと同じ、1日6時間の睡眠でも10日続ければ徹夜明けと同等になるという。しかし、柳沢氏が「本当に怖いこと」と語るのは、こうしたパフォーマンスの低下を多くの人が自覚していないという事実だ。「寝不足気味で頑張っている日本人の働き世代はほとんどが無自覚だと思います。眠気に慣れてしまっているか、『疲れ』と勘違いしているのでしょう」。電車の中で居眠りする人が多いことを『日本の治安の良さゆえ』とする向きもあるが、柳沢氏によれば、これこそが「寝不足の人が多い証」だ。

睡眠時間と機能低下の関係を示した比較グラフ。左は睡眠不足が続くほどPVT反応(注意力・判断力)が日を追って大きく低下することを示し、右は眠気の増加は比較的早期に頭打ちになることを示している。6時間睡眠でも日数が重なると、眠気の自覚以上に認知機能が悪化することが読み取れる。
左図は睡眠時間とPVT反応(精神運動覚醒検査)の関係、右図は眠気との関係を表したもの。6時間睡眠でも10日も続けば徹夜明けと同じ状態に。しかし、眠気は同じようには増していかない。資料提供:柳沢正史氏/株式会社S’UIMIN

日本のホテルの客室は明るすぎる

では、日本の睡眠問題に対してホテルができることは何か。「良質の睡眠に必要なのは、眠りの阻害要素を排除していくこと」というのが柳沢氏の考えである。つまり「これをすれば眠れる」という伝家の宝刀はなく、快眠のためには、「寝室が暗くない」「就寝前に過ごす部屋が明るすぎる」「周囲の音が聞こえる」「寝室が適温でない」「就寝前にカフェインを摂る」「寝酒をする」「就寝前にスマホでSNSやゲームをする」など、眠りを妨げるNG要因を取り除くしかない。これらの阻害要因のうち、ホテルが宿泊者のためにできるのは、睡眠環境にまつわるものだろう。

「私は常々一般家庭に対しても季節を問わずエアコンを適温に設定し、一晩中切らないことをすすめていますが、これはホテルにとっては難しいことではないでしょう。防音についても然りです」。柳沢氏の言葉どおり、一般家庭に比べ、ホテルは睡眠のための空気環境は整えやすい。実際、整っているところがほとんどだろう。柳沢氏が、日本のホテルで最も改善すべきとするのは、光環境だ。「夕暮れ以降の室内が明るすぎるのです。睡眠学的に夜間の明るい光は非常に有害で、就寝前数時間の室内が明るいとスムーズな入眠ができません」と柳沢氏。目安は「雰囲気の良いレストランの明るさ」とのこと。カーテンの隙間から入る朝陽も睡眠の妨げになる。柳沢氏は、旅先でホテルを利用する際、陽射しが入る可能性がある場合は必ずアイマスクを装着して眠るそうだ。

「ホテルにとって、よく眠れる環境を整えることが極めて重要であることは間違いありません」。この言葉とともに、柳沢氏は「旅と睡眠」の関係についての学術研究を紹介してくれた。それは、アメリカのオンライン旅行会社「トリップアドバイザー」のサイトに掲載されている膨大なレビューの分析をもとにした論文で、そこでは「旅先での良い睡眠は良い旅経験につながり、リピーターも生む」と結論づけられている。

*参考
Better sleep, better trip: The effect of sleep quality on tourists’ experiences

宿泊の“ついで”に睡眠の質が測れるのがホテル

ホテルができるのは、宿泊者への快眠の提供だけではない。柳沢氏は、一歩踏み込み、睡眠時の脳波を測定して個人の睡眠を可視化する機器の利用を提案する。自身が取締役会長を務める筑波大学発のスタートアップ企業、株式会社S’UIMINでは、頭部に紙シール状の使い捨て電極を装着して睡眠時の脳波を測定し、AI解析によって睡眠状態を詳細に可視化するウエアラブルデバイス「InSomnograf(インソムノグラフ)」を開発。医療機関等での活用を促しているが、宿泊プランに組み入れているホテルも増えているそうだ。

柳沢氏が詳細な睡眠計測をすすめるには理由がある。それは、睡眠の質は主観で測ることができないということだ。筑波大学とS’UIMINの研究によれば、「寝つけない」「目が覚めて眠れない」といった睡眠の不調を感じている人の3分の2は、脳波で詳しく睡眠を調べてみると客観的な睡眠状態には問題が確認されなかった。一方で、「睡眠の質に満足している」と答えたグループの4割に、睡眠時無呼吸症候群が疑われた。特に問題なのは後者で、「大げさではなく、命に関わることもある」と柳沢氏。2分に1回以上呼吸が止まる重症者が治療を受けずにいると、15〜16年以内に脳卒中や心筋梗塞、大動脈解離、就寝中の不整脈などで4割が亡くなるというデータもあるという。治療を要するレベルの人でも問題をまったく自覚していないケースが少なくなく、睡眠計測によって初めて問題に気づく例も多い。

もちろん医療機関経由、もしくは個人で機器を利用することも可能だが、宿泊した「ついでに体験できる」のは、利用者にとって大きなメリットだろう。「睡眠とホテルは非常に相性がいい」と柳沢氏。「他の健康指標の検査と異なり、一晩装着する必要がある機器なのでハードルが高い。その点、旅先の時間を利用して睡眠を見直すのは非常にいいアイデア。そもそも日本人の旅行は忙しすぎる。休むことを目的とした旅は今後さらに求められるはずで、そうした旅の一環としても今すぐできる取り組みだと思います」とのこと。さらに、他ホテルとの差別化のチャンスとして「外国人富裕層を対象にした睡眠のスクリーニング」の可能性も示唆する。「医療ツーリズムに近い仕掛けになりますが、保険医療に縛られない標準治療を提供し、本国の医師につなぐこともできるでしょう」。

ヒト以外の動物も睡眠をとる。しかし、夜間に長時間まとめて眠るのはヒト特有のものだという。深く続けて眠る能力を獲得できたのは、進化の過程で、火の扱いを身につけるなどして夜間も外敵に襲われない安全な環境を確保することに成功したためだ。柳沢氏によれば、ヒトはこうして得た深い睡眠によってさらに頭脳が発達した一方、言葉を話せるよう咽頭の構造が細長くなったことで睡眠時無呼吸というヒト特有の病気ももらった。進化によりヒトが抱えることになった睡眠の問題は、発達した脳で解決していくしかない。そして、その一翼を担うチャンスがホテルにはある。

睡眠研究の世界的権威であり、日本でもスリープイノベーションを推進する柳沢正史氏の写真
Profile

柳沢正史(やなぎさわ・まさし)●睡眠学者。株式会社S’UIMIN取締役CSO会長、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長。1960年東京生まれ。筑波大学大学院修了、医学博士。米国科学アカデミー正会員。大学院在学中の1988年に血管制御因子エンドセリンを、 1998年に睡眠・覚醒を制御するオレキシンを発見。31歳で渡米し、24年間にわたりテキサス大学とハワードヒューズ医学研究所で研究室を主宰。2012年、文部科学省世界トップレベル研究拠点プログラム国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)を設立。2017年に株式会社S’UIMINを起業し、代表取締役を経て2024年より現職。紫綬褒章(2016年)、朝日賞、慶應医学賞(2018年)、文化功労者(2019年)、ブレークスルー賞(2023年)、クラリベイト引用栄誉賞(2023年)など多数受賞。
株式会社S’UIMIN https://www.suimin.co.jp

取材・文/佐藤淳子
(2025 10/11/12 Vol. 753)