
庭園という「強み」をどう生かすか
ホテル椿山荘東京の歴史は、1878年に、明治の元勲・山縣有朋の邸宅として始まった。築庭に造詣が深かった山縣公は、この地が昔、椿の名所だったという逸話にちなみ、自邸を「椿山荘」と命名。東京ドームに匹敵する広さを持つ、さながら森のような敷地に粋を凝らした日本庭園も造営した。
邸宅と庭園はその後、藤田財閥の藤田平太郎氏に譲渡されたが、藤田家も山縣公の意思を継ぎ、椿山荘を大切に管理した。
「そして第二次世界大戦の後、荒廃した椿山荘の再生を担ったのが、当ホテルを運営する藤田観光の初代社長・小川栄一でした。彼は庭園を復元して一般に開放し、1952年にガーデンレストランを開業しました。現在のホテル椿山荘東京の始まりです」と、マーケティング部商品造成課長の武村美紀さんは言う。
小川社長は、人間の繁栄は「緑」と不可分だと確信していた。「平和になった日本では、人々は必ず緑を求める」と言って、財閥の財産であった庭園・邸宅を、観光施設として一般の人々の憩いの場にすることを決意した。
由緒ある庭園は今もホテルの象徴であり、かけがえのない資産だ。しかし、その“強み”を、十分に生かしきれていないというジレンマもあった。その反省もあって、2020年、庭園を中心とする施設運営に舵を切った。
そこで浮上したのが、「東京雲海」というプロジェクトだ。雲海は極めて繊細な自然現象で、地形・気温差・天気・湿度・風向きなど、複数の条件が同時にそろったときにしか発生しない。その雲海を、都心の日本庭園で人工的に再現しようというのである。
2020年10月1日、「東京雲海」はスタートした。コロナ禍ではあったが、政府の旅行支援策「Go Toトラベル」が始まって間もない時期である。屋外が舞台なので、三密(密閉・密集・密接)を気にせず近場で楽しめると、メディアはこぞって取り上げ、首都圏・近郊から多くの人々が、雲海に浮かぶ庭園を見に訪れた。




時間により季節により、場所によってさまざまな姿で魅せる「東京雲海」。
人工物の存在を感じさせない工夫も随所に
現在、椿山荘の「雲海」は、朝9時から夜10時過ぎまで毎時ほぼ2回、数分間にわたって発生するようになっている。椿、桜、新緑、蛍、涼夏、秋、冬と、7つの季節の移ろいに合わせて、演出のバリエーションも増えた。ホテルを訪れる人は、客室やレストランから雲海を眺めてもいい。三重塔、滝、池、橋などを配した広い庭園をそぞろ歩いて、雲海に包まれるという幻想的な体験もできる。ホテルの付属物に過ぎなかった「庭」は、椿山荘でぜひ見るべき場所、散策しないともったいない場所となった。
日本庭園と雲海が織りなす神秘的な景観の邪魔をせず、訪れる人の没入感を高めるため、庭園内はスタッフの手で慎重に整備されている。先進のテクノロジーを使いつつ、あくまでも自然の趣は壊さないという方針だ。
「演出用の人工物が目に入ると雰囲気が損なわれてしまいますので、そういう設備は極力目立たないよう配置しています。ミストを噴出するノズルは竹筒の中。ライトアップ用の配線や、大きな装置も風景に溶け込むよう、自然素材を利用して被覆や遮蔽をしています」
庭園改革の先頭に立つのは、より専門性を高めて刷新した庭園管理チームだ。造園計画、演出、剪定や管理の3チームに、マーケティング部門に新設した庭園運営企画課も加わって進めている。「東京雲海」のテスト段階では、一般のスタッフも協力し、施設内の各所に待機して雲海の見え方をチェック。効果的な演出を確認しながら進めていった。

庭園を柱に、文化研究や人材育成にも広がる取り組み
「東京雲海」はホテルの営業にも変化をもたらした。客室の販売状況が変わってきたと、武村さんは言う。従来はシティビューが先に埋まる傾向にあったが、東京雲海開始以降は眺望や庭園の魅力を求めるゲストが増え、ガーデンビューの予約が先に埋まるようになった。
「庭園と雲海に価値を見いだして、ご購入いただいていることを実感しています。私たちはドメスティックなホテルではありますが、『東京雲海』がきっかけで、椿山荘と庭園の魅力を知ってくださる方が国内外に増えました。『テレビで見て、ずっと来たかったのよ』などと言ってくださると、喜んでいただけてよかったなあと、嬉しくなります」
早朝、そして夜10時を過ぎると、庭園全体の4分の3ほどを覆う大雲海が出現する。宿泊してこそ見られる都心の絶景だ。
「東京雲海」以外にも、地域の文化施設との共同企画、他の自治体との庭園を通じた連携など、日本の庭園文化の振興や情報発信を活発に行ってきた。京都の造園業者の協力を得て剪定技術の向上に励んだり、各地の優れた庭園を見学したり、庭の歴史について学ぶ勉強会なども開催。勉強会には多くのホテルスタッフが参加するという。
こうした取り組みを通じ、庭園を文化・研究・人材育成の拠点として再定義した功績に対して、ホテル椿山荘東京の「庭園文化再生・発信モデル」は、2025年のグッドデザイン賞を受賞した。
人々の生きた体験と庭園を結び付ける仕組みづくりは、庭園の魅力を豊かに増幅してきた。それは日本独自の庭園文化を未来に継承する営みであり、同時に人々のウェルビーイング向上に向けた、社会貢献の一環ともなっている。「人は緑を求める」──。藤田観光初代社長・小川栄一氏の言葉は、令和の今も椿山荘に生き続けている。

取材・文/田中洋子
(2026.04 Vol. 755)
ホテル椿山荘東京(公式サイト)
https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/